怖い話 第一話


怖い話 第一話今思い起こせば回航請負業の初仕事は、ドキドキの連続だった。
31フィートの船を下関から横須賀に回航してほしい、それが懐かしい初仕事。下関の大手造船所に台湾から船積みで到着した新艇を、海路横須賀まで傷一つつけることなく運ぶ。予定は4日間。ただ、季節は西高東低の気圧配置が強烈な風を生む真冬。それが気がかりではあった。実はそれまで乗っていた本船から見れば、プレジャーボートなんてあんな木の葉のような小さい船で外洋を走っているのを大丈夫なんだろうかとはいつも思っていた。私にとっては不安のよぎる初めての冒険でもあった。

91年1月23日。
陸路下関入りをし早速その新艇を下見する。船は新造船のトローラー。当然GPSなどの航海計器はまだ設置されていない。はじめてじっくりとチェックするそのプレジャーボートは、本船に比べて勝手が違い信頼感はまったくなかった。装備されている部品はすべて貧弱に見える。エンジンはボルボ210馬力の2基がけで巡航は2200rpm、11ノット。本船なみに考え、東京湾の横須賀までは4日間の航程とたかをくくっていた。翌日は、エンジンに初めての火を入れ走行試運転。ただでさえ、その小ささから外洋に出てからの不安が募っていたのに、さらにその剛性感のなさが追い討ちをかける。引き波を乗り越えるのに船自体がたわんでしまう。機関にも良いことなんてありえ無い。それがどういう影響を船に及ぼすのか、なにしろ初体験、想像すらつかなかった。今思えばそのときに自分の五感になにかを教えていてくれていた。冬型の気圧配置、それでも東に向かうのには西の追い風が予測され、気持ちの上で楽にさせていたのは否定できない。

25日。0700時、造船所の方々から沢山の食料やら花束とで見送られ下関を出港。今ではそんな大げさな見送りもしてはくれなくなったが、この時はこちらが照れてしまうほど盛大にしてくれた。その当時、ヨットでは外洋レースというものがあったものの、下関から横須賀までプレジャーボートで回航するというのは、未知の世界、ちょっとした冒険の世界だったのかもしれない。乗員は私と古くから馴染みの機関士の2人。関門海峡を追い潮流に乗って開けた周防灘に出てみれば、追いの北西風がしだいに強くなる。が、所詮はまだ瀬戸内海、これが外洋に出てもっとパワーのあるうねりの中を走ることを考えると、もう野となれ山となれ。万葉集で名高い祝島を左にみる。万葉の頃、そしてかつては朝鮮通信司、太平洋側では九鬼水軍が今とは比べ物にならない装備の船で航海をした。その頃の船に比べればずっとましのはず。なんとかなるだろう。祝島から島影に入ってしまうと滑らかな海面にやっと安定した走行、ふぐで有名な東の上関、1345時大畑の瀬戸を越え、広島の安芸灘へと入る。どこから見ても兜の形をした甲島を左に見て平穏にとろとろと走り、かつて平清盛公がどういう土木工事を行ったのか、陸地を掘り下げ水路とした音戸の瀬戸を乗り越え1515時、馴染みのある倉橋島の桟橋に付ける。給油は420リットル。満タンで700リットルというのをこまめに給油しておく。翌朝は本船なみに0200時に出港を予定。GPSも無しに瀬戸内海を夜間航行をするのは確かに怖いが、なに、このスピード、海図と灯台の光りを頼りに本船にくっついて航路を進めばなんとかなるだろう。
充分な暖気運転を済ませ、予定どおり0200時倉橋島を出港。4日の航程のためにはなんとか今日中に串本まで行きたい。パキンと折れそうな冷えた空気で美しく輝く満天の星空に照らされた闇の中、真っ黒な島影に、時折刺すような灯台の光り、頼もしいその光りを確認しながら進む。本船航路を東に進む船を早々と見つけその後ろをついていく。0420時、流れの強い来島海峡を前に行く本船とともに越え、そのうちにしらじらと明るくなってきた備讃瀬戸をあいかわらず本船にくっついて進み、0900、桃太郎の鬼が島伝説で有名な男木島に寄港。360リッターの給油を済まし30分で出港。24の瞳で有名な小豆島を左に見て進み、壮大な渦潮を見るために見物客を乗せた小船が沢山出ている鳴門海峡が目前となると、一瞬、この船のパワーであの渦潮を乗り越えられるのかと不安になる。下から突き上げてくる不気味な潮の中におそるおそるはいる。まさしく木の葉のようにぐっと真横に動かされながらもなんとか渦潮を乗り切りホッとする。がつかの間、橋の向こうに大きく開けた紀伊水道は西風に煽られでこぼこの山並みのように見えた。さあ、いよいよ外海だ。荷物を固定しなおし、しだいに後ろからのプレッシャーが風、波ともに強くなる海を日の岬にむけて走り出す。
船は11ノットの巡航を、後ろから押してくれる波に瞬間的に早くなり、波の山に舳先が突き刺さると、ぐっと遅くなるのを繰り返す。ガバナーと舵を波に合わせて操りそれをえんえん4時間あまり。一種の拷問、自分との戦い、耐えるしかない。あと少しで日の岬というところで、それまでの3mくらいの追い波に艫を持ち上げられていて気付かなかったのだが、スタビリティーがどうもそれまでとはワンテンポくるい、さらになんとなく後ろが重いような気がした。
隣でワッチする機関士に指示。エンジンルームの確認をして戻ってくると、ストイックな彼がいつにないなんとも言えない笑みを見せて戻ってきた。
「どうした」
聞いても彼は応えない。自分で見ろということか。
無言のうちにヘルムを交代し、凍った潮をかぶるフライブリッジを降り、キャビンからエンジンルームの入り口のあるアフトバースを覗いてみる。と、なんとアフトバースのベッドの高さまで海水が浸水している。
なんだこの海水は!
何がなんだかわからない。あわててエンジンルームを確認すると、水が回るまでにはまだ少し余裕がある。原因なんてもちろんわからないが、今はそれを追及している暇は無い。
フライブリッジに駆け上がり、船を岬のブランケットへと走らせながら、操業している漁船を見つけ大声でどなる。
「船が沈む!!」
が、この風の中、瞬間こちらに顔を向けてくれるのだが、こちらが何を言っているのだかまったくわからないらしく、自分の作業にすぐに戻ってしまう。他に助けを求めてもどうしようもない。こうなったら唯一残された助かる方法、座礁させる覚悟で岬沿いを進める。が座礁と言っても岩場に乗り上げれば波と岩に砕かれこんな船はこっぱ微塵となるだろう。どこかに砂浜はないかと必死になって探す。ふと前方を見れば白い防波堤が見え隠れしている。もうちょっとの我慢だ。なんとか持ちこたえてくれ。祈る気持ちで1530時、やっとの思いでその防波堤を周り込み、小さい漁港の岸壁に舫いを取る。安心するのもつかの間、漁港を走りまわって電話を探す。この頃にはまだ携帯電話なんて今のように一般的ではなく持っていなかった。そうして走り回り、見つけた公衆電話で最初にかけた先は…
笑ってしまうだろうが、躊躇無く119番をまわした。事情を説明するのももどかしく、とにかく消防車のポンプで浸水した海水をかきだしてもらうことを要請。その次にかけたのは、公衆電話にあった古い電話帳をめくり、クレーン車を2台、至急の手配。その最中に早くも消防車のサイレン音、岸壁に繋いだ船を見ればまだ浮いている。ありがたい!助かった!
急いで船に戻り、消防車のホースをとにかく突っ込んで、大量のビルジ排出をしてもらう。そうこうしているうちにクレーン車が2台かけつけてくれ、急いでその場で上架する段取り。そして水から揚がった船にはじめて機関士とともに安堵した。
早速水から揚がった船の船底を下から確認する。ぶつけた後や亀裂は当然白い船体には見えない。いぶかりながら、海水が排出された船に乗り移り、くまなく原因を調べて見ると、右舷側の排気ミキサーの溶接部に亀裂があり、そこから大量の海水が一気になだれ込んでいたらしい。これは船のたわみが、外洋の波と風のちからに翻弄され、一番弱い排気ミキサーの接合部に亀裂を作った。
原因がわかってほっとし、そしてやっと3番目の電話で依頼主である造船所に仔細を報告した。もちろん担当者は驚いていた。とにかく急いでここ、三尾漁港に駆けつけてくれるとのこと。とにかく難を避けたという安堵から、電話の報告後に急に力が抜けた。
こんな回航請負業、スタートしたのはよいがこれからやっていけるのだろうか。そんな不安が頭をよぎる。が、今は考える力も残されてはいない。寝袋に包まって寝てしまう。
翌27日、1000時、早々と造船所の担当課長以下4名で現場を訪れてくれた。
「沈んでいたかもしれないのに、よく、船を救ってくれました。」
と今更ながらぞっとするお褒めをいただく。
事情説明は予め昨夜の電話連絡でしておいたので、早速排気管の溶接を手配してくれ、その日の夕方には補強を済ませた右舷排気管の取りつけを完了した。ただ、心残りだったのは左舷の排気管も一緒にやってはとお願いをしたのだが、現実的に亀裂がはいっているわけではないので様子を見ることだった。だが、串本まで行けばその造船所の代理店があるという。
とにかくも出港が可能になった1830時、すでに暗い海を串本目指し出港。外海は昼程ではないものの、あいかわらず追いの北西が吹いていた。本船を探しその後ろにくっついて潮の岬をかわし、灯台の明かりを頼りに大島との暗くて心細い狭い水路を辿って2200時、串本に着岸。着岸と同時に排気管を確認すると、まださほど大事にはいたっていなかったのが幸いだったが、右舷側にうっすらと亀裂が入っている。
夜中とは言え、遠慮せずに代理店に電話をし、応急処置を依頼。すでに連絡を受けていたのか、夜を徹して作業してくれ、280リッターの給油も済まし、翌28日1020時に出港することができた。今日で4日目、本来ならば今晩横須賀に入るはずだったのだが、まだ串本。
あせりは禁物なのだが、夜を走ってでもなんとか挽回したい。
が、そんな時、天のいたずらがはじまった。西高東低の気象配置は、アリュ-シャン列島あたりの低気圧が異様に発達し停滞、真西の風が吹きすさぶ。そんな中、とにかく行ける所まで行こうと、風の影響の少ない岸沿いを、あせる気持ちとは裏腹にとことこと走る。大王をかわし、1745時、伊勢の的矢港。まだまだ先は長い。さすがに疲労のきわみになっている体を労わり睡眠を取る。日付の変わった0315時、的矢を出港。静かな湾を抜け出ると、伊良子水道は打って変った海の顔、西風に押され、その波が突き出た半島に跳ね返されて複雑な、非常に深い三角波が立っていた。10ノット前後は言え、フライブリッジの上は時折突っ込む波頭が越えていき、ただでさえ暗い海、とても操船する状態ではない。戻るしかないかと考えていた0400時、左舷ペラにいきなり激しい振動が出た。こんなときに!そう、ペラに何かを巻いたかのようだった。最悪だ。躊躇する事無く反転し、片ハイであえぎながら戻る。0530時。強い西風に星空が揺れている。空気は凍え張り詰めている。気温なんてあるのだろうか。とにかく潜ってプロペラを確認しなければならないが、まだ真っ暗な海。防水の懐中電灯で確認してもたかがしれているだろうが、やることはやらなくては。
プレジャーボートでこんなことがあるとはつゆ知らず潜水の装備は用意してない。
付近にいる漁船に相談をし、とにかく水中マスクだけを借りる。そして覚悟を決め、いきなり心臓が早鐘を打つような冷たい海にはいる。ドボンと飛び込んでしまったら楽なようだが、それこそ体が、心臓がもたないだろう。地獄のように荒れた海でも船を操船するのは自分との戦いだけだが、冷たい海に裸で入るのは体がどこまで絶えてくれるのかわからない。
真っ暗な海中、頼りない懐中電灯の明かりでペラを見てみると、やはりロープが絡まっている。これを取り除かない限り出港はできない。凍る体と時間の勝負だが、冷えは体力を奪い思い通りにロープが切れない。これ以上は限界だと思うとき、ようやっとロープが除去できた。
が、機関士に抱えられるようにして船にあがった体は震えが止まらない。無理をしすぎたのだろう、そう簡単には回復しなかった。
外海はあいかわらず荒れつづけていると漁師から聞いた。収まるまで、そして体力が回復するまでここで束の間休んでも、自分との戦い、許してくれるだろう。

結局その日は出港することができずに、翌30日、0730出港した。
低気圧がさらに発達したのか、真西の風はますます強く、外海は荒れ狂い、まったく衰えを知らない。船、潜水艦とは良く言うが、風波に翻弄され彼女は体中で悲鳴をあげている。我々の根性も壊れそうだ。この伊良子水道さえ乗り越えれば渥美半島の岸沿いはブランケとなるはずなのだが、とにかくも数マイル先の石鏡漁港、そうここは歌手の鳥羽一郎の故郷、そこに0830へいへいの体で入港する。とてもではないが、この船ではあの彫れた波の中を安全には巡航できない。無理をするのはよそう。こんな船でも自分達の命を守ってくれる、愛しい船を離れる事無くそこで風が収まるのを待つ。
1月31日0630時。日の出前の薄暗い中出港。だいぶ波は収まった。0700神島通過。海からあがった太陽が励ましてくれる。渥美半島のそりたった崖を左にみながら、浜名湖大橋の下をくぐったのが0940。214リッターの給油を済まし、1020出港。1330御前崎を注意深く周り込み着岸。160リットルの給油。富士山はくっきりとその美しい姿を遠望でき、遠州灘は相変わらず厳しい顔をしている。付近の漁師に聞くと、出て行かない方が良いと皆が口裏合わせたように言う。さらにこの船、とにかく追い波の安定性はすこぶる悪くブローチングしようとする彼女を当て舵でなだめるのに精一杯。性格が悪いのではない。箱入り娘よろしく外海には体がひ弱なのだ。強い風当たりに操船の許容範囲では収まってくれない。サロンでは、立て付けが悪いのか、それとも船全体のたわみに耐えられなかったのかウインドシールドからも潮が漏っている。排気管はかなり厳重に補強したせいか、亀裂はあれ以降見られないのがせめてものこと。命を託す船、向き不向きがある。安いからと購入してしまえば、結局自分達の命をかけた高いものとなる。さらに、ここまでこまめに燃料を補給してきたのは、実は燃料タンクが一杯の時にはそれがバラストとなって重心を下げ、多少でも安定するのだが、少しでも減ってバラストが崩れてくると、もう船はしっちゃかめっちゃか、ヒステリックなローリング、ピッチングを繰り返しスタビリティーが一気に悪化することが良くわかったからだった。
ここまできて、無理をしても仕方がない。漁師の言葉通り、ここで風待ちをすることにする。月も明けて2月1日。4日で行くはずだったのが出港してからすでに8日目。0315時。朝凪が始まっているのを見て出港。
昨日とは打って変って、みるみる穏やかになっていく海を順調に走り、0500石廊通過。1130剣崎、1300、やっとの思いで横須賀にたどり着いた。正直、これからこんなプレジャーボートの回航業なんてやっていけるのか、そんな不安が心を占める。
が、着いてみると桟橋には花束を持って出迎えてくれる造船所の人々。
人々の笑顔。それを見たときはじめて、その達成感と満足感がとてつもなく大きいことに感動をした。
自分との戦いである回航、それをプロとして楽しみとなりえるここにこれからの生業をかけてみる気になった。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA